B-REVIEW(仮)掲示板

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論文、評論、批評、随想、感想、心覚え - まりも

2017/08/07 (Mon) 09:24:15

論文、評論、批評、随想、感想、心覚え・・・の違いって、なんだろうな、と思ったので、なんとなく、書いてみます。

論文は、過去の研究史を参照しながら、できるだけ評価の定まっている先達の論評を援用して、自分の論の正当性の担保をしていく形で執筆されるもの。自身の仮説は最初に提示されたとしても、その補完や担保は、できるだけ「権威」ある他者の言葉を用いて語るもの。

批評は、対象作品の構造分析や独自の解析を自分の論の根拠として提示しつつ、自身の言葉で語るもの。書評も、基本、このジャンルに入る。

評論は、論文と批評の中間くらい。割合は、その書き手のスタンスによる。

随想は、批評的な部分も含むけれど、より感性に依拠する。対象から喚起された思想や詩想を自在に働かせ、論文よりも文学作品に近いもの。

感想は、純粋にその作品を読んで、自分が感じたこと、受け取ったこと、思い出したことを書く。時には対象作品から離れて、俗にいう「自分語り」になることもあるかもしれないが、対象作品から喚起された、という発端が維持され続けているなら・・・それもまた、対象作品の作者にとって、豊かな気づきを与えるものとなるかもしれない。作者どうしが、作品を通じて交流する、そのきっかけとなるものでもある。

心覚え(これは、私が勝手に命名しているものですが)対象作品から、自身の創作のヒントや、批評のヒントを得た時に、それを忘れないように記す備忘録。読み手のための備忘録ではあるが、他の人にも(もしかしたら)有用かもしれない、という時に、公開するもの。

今、ここに記していることが、まさに「心覚え」です。

Re: 論文、評論、批評、随想、感想、心覚え - Tensaishijin

2017/08/07 (Mon) 12:33:59

このあたり日本語の豊かさにはっとさせられるとこなんですが。いま思いつく範囲で英訳してみました。

英訳すると意味のアウトラインが比較的はっきりしているのが、論文と批評、それ以外はわりと曖昧で日常的な文脈や厳密さの度合いによって意味の振幅や転移の可能性が大きい感じがします。

論文は学問分野ごとに引用文献を羅列する方法(一字空けあるとかダッシュとハイフンの違いとかまで)がこまかく指定されていて、フォーマット専門の本がが出ているくらいです。
内容以前を問わずテクニカルな書物いう前提が大きいと思います。

批評は対象範囲が作品とその周辺という、起点から頑丈な枠組みが与えられている。書き手の創造性を活かすにしても魚が泳ぐための容器がすでにそこににあるようなイメージですかね。

あまり参考にはならないかもしれませんが。


論文 article, (academic) essay


評論 essay


批評 critique


随想 essay, reflection


感想 comment


心覚え note

Re: 論文、評論、批評、随想、感想、心覚え - まりも

2017/08/09 (Wed) 18:38:49

天才詩人さんへ

ありがとうございます。エッセイ、というジャンルの、日本における異様な発達と底辺の広さ、これは外国には見られない現象なのではないでしょうか。
日記のようなものから、モンテーニュのエセーに到るまでのレベルで、幅が広い。日記文学が、日本ほど発達した国も少ない、と、これはドナルド・キーンさんが書いて下さっていたように思いますが・・・

事実の記録、としての日記、ではなく。日々の想い、感じたこと、考えたことを記す、心の記録でもある、日記・・・。
日本語が、漢語という公式語と、大和言葉という私的な言葉の使用(そういえば、なぜ私式、という言葉がないのでしょうね)、更にはカタカナをも併存させて、TPOや微妙なニュアンスに応じて使い分けて来た、ことに、遠因があるのかもしれません。
多様なニュアンスを表現するために、多彩な言葉を使うことができる。仕方なく(乱暴に)意味の合っている(でもニュアンスとしては、しっくりこない)言葉に嵌め込んで、意味伝達の為に使う言語、と異なって・・・抒情に必要な、ムードやニュアンス、質感や気分、といったものを、伝えることができる。
日本語の豊かさを、再認したいと思います。
(それだけに、翻訳はなおさら大変でしょうね)

Re: 論文、評論、批評、随想、感想、心覚え - ハァモニィベル

2017/08/10 (Thu) 01:35:34

(ベルの「心覚え」)

論文と評論、そして、批評と感想 について

〇論文のばあい、

 そこでは言葉は自身にとって達成不可能とも言える宿命を背負わ
される。 それは一義的になることを求められるからである。 
オクタビオ・パスの言うように、
「むき出しの意味になることを拒絶する」言葉にとって 
本来、一義的になることはかなり高度なミッションなのである。
 (ただ、実際は、紋切型の内容を紋切型の言葉で伝達する範囲で
なら容易い)

 ※ 因みに、
「詩において言語は〔…〕原初的な創造力を取り戻す」というのも
パスの言う通りだが、ただ取り戻せばそれが詩であるというのなら、
詩をかくのも容易いことになってしまう。


〇評論のばあい、

 言葉は、「これは言葉であるが、しかし言葉ではない」と言えるよ
うな《意味の弾性》をもっている(佐藤信夫『レトリックの意味論』,1996年)。
それを、最大限に駆使して自己の想念と感性に一義的であろうとす
る論文的試みが評論だと言えるかもしれません。(私の場合は批評を
書くのも詩を書くのもあまりギアの切り替えがありません。形式選択
の違いだけです)


○批評と感想のちがい

感想は、
書いている人の眼にどんな鱗がついてるかを書き手自ら表示するもの。

批評は、
読んだ人の眼から鱗を剥がすものです。


**

ハァモニィベルさんへ - まりも

2017/08/11 (Fri) 08:49:13

なるほど・・・以前、ハイデガーと道元を比較検討する、という学会発表を聞きに行ったとき(そもそも、テーマがデカすぎて、これ、だいじょぶなん?と思いつつ行ったのですが)用語の説明というのか、発表者の定義の説明、で、発表時間が終わってしまった、ことがありました。
論文発表の方が先に決まっていて、内容の方が間に合わなかったのか?とツッコミ入れたくなるレベルでしたが(^_^;) それなら、ハイデガーの「〇〇」という術語に関する考察、と絞った方が良かったな、と。まあ、これは余談ですが・・・

意味の一義性を追求しすぎると、まだ社会的な「意味」「ニュアンス」をまとわされていない、伝達の道具、としての言葉を創作しなくてはいけなくなる。

やたらにお役所が、一般には耳慣れないカタカナ言葉(しかも、本来の意味合い、使用法とは異なる、日本独自仕様)を使いたがるのは、旧来の、感覚の範囲でやりとりされてきた、言葉のあいまいな部分・・・色や形、ではなく、匂い、や触感、のようなもの・・・を、取り除いて、できるだけ多義的な解釈を防ごうとするから、なのでしょうね。
しかも「霞が関文法」を用いて、意図的に、恣意的な解釈の可能性を残す。あえて長文にして、前半で読んだことを、後半では読者(一般国民)がなんとなく忘れてしまって、最後の部分だけ、印象に残るような文体に造型していく・・・

自分は、この言葉を「この意味合い」「この用法」で用いるのだ!・・・ということ、その人独自の「におい」のようなもの・・・が、作品を読み進むうちに、ややこしい説明なしに、自然と理解される・・・しかも、それが感性の領域で、自然になされる。いわゆる、腑に落ちる、ような感じで、伝わる。それが、きっと良い文芸作品なのだと思います。

その意味では、鱗の喩、とてもいいですね。眼から鱗、と言いますが・・・その人が生まれてから、今、ここでその言葉を読んでいるまでの時間に得た、経験や体験、その人の思考、環境、性向・・・などの様々なものが生み出した、薄いけれども、人それぞれに異なった色合いを持つ、フィルター、のような鱗。色眼鏡のようなもの。それを通じて「みた」ことを伝える。そのことによって、その人の独自の解釈が、作者に返され・・・こんな読み方もしてもらえるのか、という発見につながる。それが、きっと素敵な感想なんだろう、と思うし・・・この人は、このようなフィルターを通じて作品を見ているから、このような思考の流れが生まれるのだ、と説明することによって、多義性の由来や多解釈の根拠を示してもらえる、それが、きっとよい批評である、のでしょう。

よい批判、とは何ぞや、ということについても、しばしば熟考するのですが・・・科学的な、「事実」の誤謬を糺していく「批判」と異なり、文芸の「批判」は、その人の所属する場に影響を受けるから、かなり難しい。構造の打破、とか、外に出よ、みたいな話になって来るので(そうすると、また、新しい、旧来の意味を付されていない、まっさらな言葉、を創作しなくてはいけなくなる)常にじりじり、もやもや、といった曖昧さを抱えています。

Re: 論文、評論、批評、随想、感想、心覚え - ハァモニィベル

2017/08/12 (Sat) 22:59:55

まりもさんへ

「ハイデガーと道元」ですか。そのメニューの盛り付けの中には、
《ハイデガーの『存在と時間』は、道元からのパクリではないか》
というのもあったのでしょうか?
西洋哲学のいきづまりを東洋の仏教をパクることで打開する・・・。
ハイデガーは、後年、気骨のあるヤスパースから絶好されてしまうよ
うな人なので、正直にパクってますというよりは、独創的な振りをし
ても平気だったかも知れませんね(実際は知りませんが。笑)。

気骨はないけれど、そのぶん器用ではあるひとは、実は
少なくないのかもしれません(悲)。



感想と批評の違いについて、私は、
目に張り付いた鱗のたとえを出しましたが、
専門論文とか、専門家の世界は、その世界の
内と外にその専門固有の知的境界が設けられていますから、

専門家というのは、言ってみれば、
同じ目の鱗を付けていない人間は、仲間に入れない
という専門に根ざした本来的な面があります。
だから試験制度があるわけでしょうね。

しかし、芸術や文学の領域で、(共通の鱗)で統一するのは
どうなんだろう? というのが私の問題提起です。

もちろん、ナンデモアリでは困りますが、
同じように勿論、コレシカナイでも困るわけです。

一定の水準に達していないものは、シロートである
というのは、どの専門にでも言えるだろうとは思います。

剣道の場合なら、初段より下は完全に素人で、
初段もちょっと怪しいんですが、それでも、
大概のひとは、稽古を積めばば七段にはなれます。
しかし、誰もが八段には成れないのです。


まりもさんの言われた
>よい批判、とは何ぞや〔…〕
>文芸の「批判」は、その人の所属する場に影響を受けるから〔…〕
>まっさらな言葉、を創作しなくては〔…〕

私の場合なんかだと、
「よい」とか「影響」とか考慮しないで
《自分》の感覚にこだわってを表現するだけ
なので、
「まっさらな言葉」しかむしろ使えないのが悩みですね。

ただ、なんとなく、
「まっさらな言葉」を「創作」しては いけない と思いますよ。

自分の心や思考に一義的な(ことば)を
目指すのがいいように思います。

それを、まっさらな言葉に翻訳すれば、
《自分を裏切らない言葉》、と言えるでしょう。

Re: 論文、評論、批評、随想、感想、心覚え - bananamwllow

2017/08/30 (Wed) 13:12:33

「心覚え」という表現を面白く思いました。

天才詩人さんが対応させているnoteから逆に考えれば、「覚書き」と意味内容は近いと思われますが…

「批評」に関して、少しだけ。
critique とreview は通常分かれると思いますが、「書評」は扱いが難しいですね。
書評はcritique 、reviewのどちらにも入りうるでしょうが、この国で行われていることの多い文芸誌の月評などはreviewに該当するものが多いように感じます。

昔の話ですが、critiqueは「危機」が内包されることを要件とする、というテーゼ?が普通に流通していたと思います。

Re: 論文、評論、批評、随想、感想、心覚え - まりも

2017/08/30 (Wed) 13:55:35

ハァモニィベルさんへ しばらくフォーラムのチェックを怠っていて・・・失礼しました。
さすがに、公の場での「発表」ですから、パクリである、というような文言はありませんでしたが(笑) 「有」の概念など、かなり道元寄りに引き寄せて解釈していましたね。ハイデガーの用語法と、道元の用語法が、いかに似ているか、という比較検証、で、終わってしまった、という・・・
ハイデガーが(直接)影響を受けたかどうか、ということより、共通の基底(東洋的というのか、汎神論的、というべきか)から発しているのではないか・・・ハイデガーが西欧キリスト教において、存在論や時間論が理論化されていく過程で「覆い隠してしまった基層」を掘り起こした、というような形で話を進めてもらえれば良かったなあ、と思いつつ・・・

Re: 論文、評論、批評、随想、感想、心覚え - まりも

2017/08/30 (Wed) 14:17:04

bananamwllowさんへ どのようにお呼びすればいいのか、いつも迷って、選評では「バナナさん」などと、失礼な呼び方をしております(笑) よしもとばななさんが、イタリアで講演をした時、松尾バナナと同じ名前ですね、としきりに感心された、というエッセイを、楽しく読んだ記憶があります。

「critiqueは「危機」が内包されることを要件とする」これはとても大切な視点だと思いました。
criterionまで含めて考えるなら・・・危機に際して、正しい判断を迫られた時の、振る舞いの基準、取るべき行動、そこまで踏み込んで言及するものを「批評」と呼ばねばならないのでしょう。現状に危機感を抱いた上での提言。能動性が非常に重視される行為であるのかもしれません。
reviewは、まあ、文字通りに取れば読み直す、見直す。ある種傍観者的に、あまり踏み込まずに分析して、流していく・・・というような印象もありますね。何のために「観る」のか。それは、今後の行動の規範にしていくため・・・というところまで踏み込めば、批評に限りなく近づいていくのかもしれません。

「書評」は、分析と紹介(そして、長所を褒める)に終始している感があります。商業誌であればあるほど、読みたくなる、ように紹介するというのも「使命」であるのかもしれず・・・書評執筆者が、本当に「これは良い本だから、読んでもらいたい」と思っているなら、それは大変すばらしいこと、なのですが・・・。

特質を述べる、ところまでがreviewなのか。特質に良し悪しの判断を下す、ところまで、reviewに含めるのか。その判断は読者に委ねるのか・・・

独り言のようになってしまいましたが、掲示板で書ききれなかったこと、黒田喜夫の「あんにゃ」の問題に関して。
これは、現在のワーキングプア問題(特に、自己責任論に還元されてしまうあたり)に関わって来る重要性を有しているように思います(だからこそ、文字通りの意味で、読み直す、reviewすること、が必要となるのでしょう)

渦中にいる者には、既に立ち上がる力が残されていなくて、外部の者が「人間の尊厳」といった「高邁」な思想や、義侠心や正義感からコミットしたとしても・・・永遠に外部からの関り、に留まり続ける、という矛盾・・・時には、驕慢とも取れる思想や主義の押し付けになりかねない、という問題。
内部から自己批判、外部批判に立ち上がった時点で、その内部から外に出てしまう、疎外されてしまう、という問題も含んでいる、でしょうし・・・そのように割り切れないことばかりだからこそ、詩による表現が生まれた、のかもしれません。

いずれにせよ、共に自発の道を探っていく他はないのだ、と考えます。

かもしれない、ばかりの文章になってしまいましたが。詩を通じて、対話を通じて、そうした問題にも開かれた場であってほしい、と思いました。

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