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3分で伝える詩論スレ - 蛾兆ボルカ

2017/07/29 (Sat) 21:27:28

一文をおこすまでもない、詩についての考えとか想いたかを、ふと述べたくなったとき、
気軽にぱっと書くスレです。

読んだひとが、三分間でわかるぐらいに書けるとイイですね。

Re: 3分で伝える詩論スレ - 蛾兆ボルカ

2017/07/29 (Sat) 21:42:36

「詩とリアルについての、私の考え。」

文は、論文、請求書、詩、エッセイ、日記、おみくじそのほかあらゆる文について、「語り手は、語り手にとっての真実を語っていなければならない。」と、いうものだと私は思っています。

例えば、エッセイでは語り手は筆者だから、例えば書かれた話題の数年前に廃止されたバス停に、バスで行ったなどの、筆者が体験できなかったことを書いてしまえば、低品質なエッセイと思われても仕方ないと思います。

小説では、語り手は創作されたキャラだから、語り手にとっての真実とは、キャラに矛盾しない認識ということになります。

詩ではどうか。詩の語り手とは誰か。
説得力のある一般論はたぶん存在しないと思うのですが、作品ごとにそれはあるとおもいます。

例えばコンビニでレシートもらって、それが間違えてる場合もあります。だけど、レシートの語り手さんは、嘘ではなく真実として、何円ですよ、と主張している。
そう解釈しないと、文なんか読めないと私は思います。

わたくし性と、虚構の問題? - まりも

2017/07/31 (Mon) 00:08:14

三分だけ、時間をください、ですね(笑)

語り手にとっての真実、これは、事実(外部の人が客観的に証明し得る)ではなくてもよい、と思っています。その人の心情にとって、事実、であれば。

太陽は東から昇って、西に沈む。これは、地上から見ている人にとっての「真実」だし、太陽はいつでも私を見てくれている、と子供がつぶやいたとして、これもまた、その子供にとって「真実」でしょう。
太陽の周りを地球は回っている。これは「事実」かもしれないけれど、その「事実」に真底感動して、その感動を詩に書こうとする人がいれば、その「事実」は、その人にとっての「真実」になる。

詩は私小説であるのか、どうか・・・エッセイ的に、自分と作品中の語り手が同一の場合もあれば、自分であっても、私小説風に脚色したり突き放したりしている場合もある。完全に虚構の人物を設定していて、その人が「わたし」として語っている場合もある。

作品の語り手が「わたし」として語っている場合であっても・・・書き手と語り手は同一ではない、というのが、私の考えです。ドキュメンタリーやノンフィクションであっても、自分自身を語る時に、自分で自分の記憶に編集を加えたりする。虚飾は行わないとしても、デフォルメ・・・一部を隠したり、一部を強調したり、ということが起こる。そのデフォルメの際に、どこに焦点をあてるか、ということが、文章を「日記」から「作品」へと昇華させるカギなのではないか、と思っています。

Re: わたくし性と、虚構の問題? - 蛾兆ボルカ

2017/07/31 (Mon) 08:05:02

まりもさん
ご参加ありがとうございます。
放談や断章の形でいきますのて、気軽に、何でも書き込んで下さい。


 

語り手にとっての真実、これは、事実(外部の人が客観的に証明し得る)ではなくてもよい

これは私も同意です。

私は、作者(書き手)と語り手の違いを強調しはぐりましたね。
ほとんどの文に於いて、その二人はキッパリ異なります。

例えば契約書には、甲は乙に百万円払い、乙は甲にナニナニを譲渡する。なんてことが書いてありますが、この文の語り手は、神様みたいな何かです。変ですけどね。これは昔から気づかれていたことで、これにかこつけて妖怪「クダン」の伝説が発生しました。
書き手は弁護士事務所の職員とか会社の法務部のひととかです。

エッセイ、日記、手紙が特殊なんですね。それらでは書きてと語り手が一致します。
詩は微妙なんですが、3分で語るなら、書き手と語り手は異なります。メンタルスケッチをモディファイしたひとが書き手で、四次元空間で青く光ってる電流みたいな「わたくしといふ存在」が語り手です。

契約書でも、論文でも、作者はときに嘘をつきます。小説では必ず嘘をつきます。
しかし、フィクションは、書き手と語り手の間にあります。
語り手とテキストの間には真実しかあり得ない、と言うのが私の意見です。

Re: 3分で伝える詩論スレ - ハァモニィベル

2017/08/03 (Thu) 04:41:03


まず、

蛾兆ボルカさんの

 「語り手にとっての真実を語」るべし

というのは一つの詩論ではありますね。

蛾兆ボルカさんが詩を読むばあい
つねに語り手と向きあおうとする姿勢があるという
ことが想像されます。
そうした読み手は、
心ある作者にとって心強い存在だと思います。
ただし、
その立場においては、おそらく
ある作品の「語り手の真実」は何か、読み取りを巡る議論に
巻き込まれたとき勝てなければなりません。

 *
次に、

まりもさんの

  日記が作品に昇華するカギ

これは、語り手の真実を垂れ流しても日記であって作品にはならず、
作者の編集力(センス)こそが大切だ。という指摘で蛾兆命題への反駁ですね。

この立場は、
ある意味、わたしに言わせれば当然のことなのであって、
ただ
大切なのは、
これを意識しないで出来なくては本物ではない
ということです。

この立場において
注意しなければいけないのは、
技巧を重視しすぎてはダメということです。
それは、まさに「真実性」を損なうからで、
非力な書き手が、表現力を技術力だと勘違いする馬鹿げた誤解を生じさせます。

そういうのは、詩人検定2級ではあっても

ネイティブな詩人ではありません。

よって、
真実性を損なわない高い表現力が示せることが大事なのであり、

ただ技工に長ければ本当の意味での詩人が書いた詩が書けるわけではない、ということを
補足する必要がありそうです。



さて、

3分はもうだいぶ過ぎたでしょうが、
ついでに此処で(私の真実を)語って終わりにしましょう。


私の場合リアルは、

「読者へのリアリティ」ということになりますが、

リアリズムで書け、ということでは無論ありません。

例を出すと、

漫画『子連れ狼』の設定にある「公儀介錯人」。こんな役職は歴史には無いけれども、
読者には(むしろ)アル、リアルと感じさせる。

つまらないファンタジーなんかだと、書き手みずからが、
自分は「嘘」を書いているというツマラナイ無意識が反映してるから
読者にはもっとツマラナクなるんだろう、と思います。

 作品はファンタジーであっても、それが、読者には現実にならないとイケナイわけです。


さてさて、


以上は、じつは挨拶代わりでして


わたしの「3分で伝える詩論」ならぬ、1分で伝わる詩論が下記です。



私なりに詩を分類するとこうなります。


 わからないけど、腑に落ちる詩 (詩人の詩)

 わかるけど、腑に落ちない詩 (凡人の詩的な文書)

 わからないし、腑に落ちない詩 (文字化けと同等の駄作か前衛ゲージツ)

 わかるし、腑に落ちる詩 (文学的な詩)


ですから、

<腑に落ちない>作品というのは 
私には、詩ではないということです。

以上の3つ目(ゲージツ)については
これは、人間的なものを排した、無機的な表現を狙っているのかも知れませんが、そういうのは、結局、模様が連続しているのと変わらず、ひとつのデザインであって、言葉の場合は、余程の傑作でない限り、人間には退屈でしかありません。

以上です

Re: 3分で伝える詩論スレ - test

2017/08/05 (Sat) 10:24:04

ハァモニィベルさん
こんにちは。

私は最近、あなたに一つの「投げ壜通信」をしました。

先月出した詩集に例の拙作「詩が書けない」を収録し、後期に謝辞を入れたのです。
といっても、「ありがとう」と、書いただけですが。

まあ、それはそれだけのことだけど、今後もヨロシクね。


私の述べているのは、「語り手」と「テキスト」の話です。
「作者」と「語り手」の関係や、「作者」と「テキスト」の関係も興味深いわけですが、私にはもう少し、「語り手」と「テキスト」の関係について、語るべきことがありそうです。

その間に嘘がないというのは、「ありえない」ということ。すなわちロジカルな話であり、倫理的な話ではありません。


Re: 3分で伝える詩論スレ - ハァモニィベル

2017/08/05 (Sat) 18:46:41

蛾兆ボルカさんへ

 私は詩に関して(最初からネットに迷い込んでしまい、
漂流しつづけているので)いっしょうけんめい書くほど
虚しさを感じるだけでしたが、最近、心境が変わったばかりです。
 書くことだけは私の領分ですから、そこだけ精一杯やろうと。
その後は私にはどうにもならない運命の領域ですから、得点や金
メダルのことは考えない、で、ただ全力で走る、全力で書く、と
いうことに全身全霊を燃焼させてみよう、という心境です。

 ですが、もし最近の心境の変化がなかったとしても、今。
詩集に謝辞の件をお聞きして私がずっと抱えこんでいた巨大な《虚しさ》は
全部吹き飛び《感謝》に変わる思いです。
 《ありがとうございます》




>「語り手」と「テキスト」の関係について

私は「読者」ファーストの立場(おもねるという意味では勿論ない。
作者自身が何よりもまず、自作の読者なのであって、その読者からの
駄目出しが強いか弱いか、適切的確か否か、が才能と直結している、
と考えている)なので、

「読者」に重心を移してしまいましたが、


蛾兆ボルカさんの提起した

>「語り手は、語り手にとっての真実を語っていなければならない。」
>作者はときに〔…〕小説では必ず嘘をつきます。
  >しかし、フィクションは、書き手と語り手の間にあります。
  >語り手とテキストの間には真実しかあり得ない、と言うのが私の意見です。

によれば、

 作者ー(嘘)→ 語り手ー(真実)→ テキスト

であって、重視したいのは右側の関係だ、ということですね。

この「語り手の真実」がどういうものなのか、
もう少し説明していただければ、と思います。


私としては、次の点が気になっています。
(事前に書いておきますと)

人が内側で原初的に抱くような触覚や味覚、イメージ想念は、
言語という直接伝達できないもどかしい手続きを通さないと
別の人には伝わらない。しかも、かなり上手に組み上げても
《そのまま》ではけっしてない。

ということが、人と言語の宿命としてあるわけです。
ですから、「語り手」も(人か擬人ですから)自ずと、言語による歪み
は避けられないだろう、と、その辺りと「真実」の関係が気になります。

(その言語による歪みが、極めて少ないのが作家なのだろうと思います。
 これは、画家が絵が上手いのと似ていますね)


因みに、
私はとくに議論するつもりではありません。

むしろ、(わたしも含めて)個別の作品にあれこれ
言うとすれば、じぶんの詩論をなるべくわかりやくすく
述べておくのが礼儀だと(わたしは)思うので

このスレの存在じたいに敬意を感じています。


語り手と言語 - 蛾兆ボルカ

2017/08/05 (Sat) 20:58:15

私の述べたことには、おっしゃる通りの事柄や、その他にも色んな問題点があると思います。
以下に二つの私見を。

私の考えでは、語り手は、言語により語る存在としてしか、存在しません。
作者は、言語では語り得ないことや、語るのが困難なことをたくさん持つと思います。しかし、そうした問題が存在する領域には、語り手は存在しないと私は思っています。作者はそこにいます。

語り手についての、一つの例えを。

悪い人っていますし、そういうひとと対話とか、取引とかする場合もありますよね。社会生活の上で。
コミュニケーションの相手がどんなひとかは、もちろん大事だし、私もそれもきにしますが、一応はコミュニケーションが成立している場合は、少なくともその場面に限っては、他の原理を優先するケースもあります。

話相手が、良いひとか悪い人かは、後回しにする。
そして、悪人なら悪人なりに、筋が通った話をしているかどうかを重視するのです。
「お前が悪人だろうが嘘つきだろうが、俺の知ったことじゃない。俺が気にするのは、今、お前の喋ってることに、お前がお前の筋を通してるかどうかだ。筋を通さないやつとは取引しない。」
みたいなことです。
ていうか、取引出来ないわけですね。何言ってるかわからんよ、みたいなリアクションしかできません。

この場合、「お前」とは、語り手です。
そいつをこの世にあらしめた人格が作者に相当する者だと思いますが、対話が可能かどうかは、それが悪人か善人かではない、ということなのです。

ザ.フール としての語り手 - 蛾兆ボルカ

2017/08/06 (Sun) 17:43:25

今日は、アンソニー ドーアというアメリカの作家が二十代で書いた小説を読んでいました。
久しぶりに、高品質なフィクションを読み、そのことがもたらす充実感のなかで、ふと思いついたことを書きます。

例えば隠喩を語る語り手をどう理解するか?
隠喩であることが明示されているテキストでは問題になりません。例えば、ボードレールの、「あなたは美しい秋の空!」という詩句では特に何も問題ないのですが、最初から最後まで、空が何の比喩なのか明示されない文も想定できます。だけど【読者】が解釈すれば、その文の「空」は「マダム.マルマルさん」なのだろうし、【作者】はそう暗示したのだろう、と言うような場合です。
その場合、語り手は、空の話しかしてないわけだけど、これは語り手が嘘をついているということなのか否か。
寓意やアイロニーでも、こうしたことが起きますし、名前のついていないレトリックでも頻繁に起きます。

タロットカードは好きなひとも嫌いなひともいるでしょうけど、好きな場合、自分には良く出る、運命のカードみたいな大アルカナカードが、一枚あったりすると思います。客観的には思い込みであるにしても、ね。
私の場合、愚者とか、道化師と訳される「ザ.フール」がマイカードで、これがどの位置で出るか、ハングマンやジャスティスとかとの関係を、占い師がどう解釈するかを愉しみます。ちなみに、フールとは、直訳すれば、「バカ」という意味です。

で、高次なレトリックが使用された文における語り手ですが、フールなのだと解すると、太宰のいう戯作者論や、ミニマムリアリズム以後のアメリカの小説や、ブコウスキーら無頼派詩人にも、私の詩論が届くように思います。
端的に言い直すと、「語り手とは、真実を語るバカなのだ。」と、言うことです。

先に上げた架空の隠喩の例で、それは語り手が言うには、マルマル夫人ではなく、正真正銘の雲なのです。

この詩論により言うなら、読者は、語り手が言うことだけ聴いていたら、テキストを理解できません。しかし、どんなにへんちくりんな語り手であろうと、語り手の語ることをそのまま読むことによって、テキストは、その「表面」が読者に手渡されます。






Re: 語り手論 - 蛾兆ボルカ

2017/08/06 (Sun) 18:05:13

と、申しますか何と申しますか。とっくに三分超えましたので、と、いうかあまりにも超えすぎですから、私の語り手論はこれでやめます。すみません(笑)

ハァモニィベルさん、4つの詩の詩論、ありがとうございます。

詩論は百花繚乱をもって豊穣と心得ます。
どなたでも、ご自由に、お気軽に詩論を書いて下さいますと幸甚です。

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