B-REVIEW(仮)掲示板

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現代俳句鑑賞―よろしかったらご覧下さい - Migikata

2017/06/25 (Sun) 19:49:33

 中村和弘氏の句集『黒船』を拝読したが、漆地にたっぷり金粉を塗したような、蒔絵を模した外箱の姿にまず目を奪われた。箱一面の金砂の隙間に、文字通り漆黒の地色が差し込み、明暗が複雑に入り組んで美しい。句集名の由来となった句、
黒船を閉じ込めいたる椿かな
を読むと装丁者のデザインの意図がよくわかる。つまり華やかさが重い暗さを抱え込み、それと一体化した美しさというものがあるのだ。
 椿の花の種類は多いが、一般にまずイメージされるのは赤い藪椿であろう。その赤は緋にも近く、華やかな色の底に闇が沈潜する。背景に繁茂した分厚い葉の濃緑とあいまって、どこか官能的な冬の暗さが醸し出される。この暗さを、作者の感性は「黒船」と捉えた。
 作者の言によれば、黒船という語には、ペリー来航以降の近代化と経済発展のため、多くのものが失われたこと、特に自然が破壊されてきたことへの怒りと哀しみが込められているという。この句集には、自然破壊が進んだ現代、目前の景に対し、正面から向き合い格闘する作者の姿勢が見られる。古来変わらぬ椿の花が咲いているのは、おそらくアスファルトの街路の傍らなのだ。近景に遠景に際限なく建物が重なり、空には電線が張り巡らされ、立ち並ぶ看板にはレストランの店名だとかパチンコ屋のキャッチフレーズだとか、自動車メーカーのロゴだとかが派手な色遣いで描かれている。それが我々の住む街の現実だ。
 現代の伝統俳句というものは、ある面ではこうした環境からの逃避であり、ある面では抗議や抵抗であったりするのだろう。ただ、現代の環境に感じる生理的違和感そのものが俳句になることは、僕が知る限りほとんどない。
  温泉パイプ紅葉の崖を蛇行せり
  落石止めの網を頭上に年迎う
  ガスタンク三基繋がり枯れつくす
 これらの句を読者はどう捉えるだろうか。たとえば一句目、美しい紅葉の崖を人工的な温泉パイプが台無しにしている、という文脈で句意を捉えることはできる。同じやり方で二句目を解釈すると、無理な開発で切り崩された山間の崖で、落石を防ごうと張った網がますます景観を破壊している様子、ということになる。ガスタンクの句も、広大な産業施設の敷地の荒廃を告発している、と解釈できる。しかし、それはあくまで句の本質ではないと僕は思う。俳句の捉える対象は論理ではなく、モノを含めた景だからだ。もう一歩進んで言えば、景と「我」との関係だ。これらの句の中には、実際にそれぞれの場に立って、じっと対象と向かい合っている生身の作者の存在がある。花鳥諷詠の美観からはみ出し、どうにも感情移入し難い違和感に充ち満ちた景が、しかし圧倒的な実在として目前に突きつけられている。景さえあれば、その空疎さに耐えつつ俳句は立ち上がる。そもそも何をどう感ずるべきか、という問いそのものを句の実質として。そこにも美があり、この短い詩型への天の恩寵がある。
  杭の頭の十字に割れて花の中
 桜の落下さかんな庭に一本の古い杭が立っている。あるいは花筏の真ん中に、水中から頭だけを突き出す杭かもしれない。その杭の頭が十字に割れていた。ただそれだけ。なぜかは作者にもわからないはずだ。単なる経年変化かもしれないし、人手が加わっているのかもしれない。十字に割れる必然性や、十字に割ろうとする意図があったのかどうかもわからない。十字は宗教的象徴なのか、決定的分裂の境界線なのか、まったくただの十字なのか。杭の頭、腐食して定かならぬ年輪。断裂の奥へ湿った暗闇。そこにも入り込んでへばりつく薄紅の花弁。どこか頼りなく傾いで、いくらかは黴の浸食を受けた杭の胴体が伸びている。その周囲に、どっと散乱し展開する花。花の欠片。杭を囲む執拗なまでの花びら。風の匂い。春の温感。「見えてしまうもの」を詠んだ句には、読者もひたすら「見ること」で対するよりほかはない。
 中村氏は昭和十七年生まれ、現在「陸」の主宰をなさっている。
  槌と鑿離ればなれに松の内
のように、端正な写生句を作る力もお持ちだが、今回はあえて筆者の問題意識と共振する作品を採り上げさせて頂いた。

Re: 現代俳句鑑賞―よろしかったらご覧下さい - Migikata

2017/06/25 (Sun) 19:56:25

10年前に書いたものですが、いかがでしょうか?
掲示板意図と違うようでしたらご指摘ください。削除します。
感想頂けるとうれしいです。

Re: 現代俳句鑑賞―よろしかったらご覧下さい - まりも

2017/06/26 (Mon) 17:34:46

雑談版ですので、掲示意図うんぬんは気にされることはないと思います。

景が、立ち上がって来るかどうか、という事以上に、その景に読み手が入っていく、のか、取り込まれていく、のか・・・その関わり方のスタンスが、鑑賞のスタイルの際になっていくのかもしれない、と思いました。

写真集で、クローズアップを好むか、パノラマを好むか、というような焦点の当て方、とか・・・そこに、社会批評性などを見るのか(時には、無理やり)自身を動かした「美」あるいはなんらかの「衝撃」を見るのか・・・

たとえば、崖を蛇行するパイプ、人工物と自然物の妙(その面白さ、美しさ)に感動したのか、人工物が邪魔している、と文明批評的に観るのか・・・蛇行、という言葉に、読者が忌避を抱いているか否か、という受け止めての側の問題も出て来るでしょうね。

函や装幀から予感するもの、句の配置から予感するもの、様々な前提条件が読後感を左右するでしょうし、受け止め手の心理状態によって、感動する句が異なって行ったりもする。

詩の場合も、数年前に開いた詩集をあらためて読み直すと、その時の感動とは別の個所に惹かれたりします。

中学生の頃に読んだ、その読後感をずっと引きずっていて・・・大人になって読み直して、その景の変化の大きさに驚いたりしたことも。

読み手の側によって、各々のフィルターを通してみる画像のように異なってみえる作品、その多様な姿を(自分のフィルターを通すだけでは見えてこない何かを)読みあえる、見せあえる場になればいいな、と思っています。

Re: 現代俳句鑑賞―よろしかったらご覧下さい - Migikata

2017/06/27 (Tue) 21:03:53

コメント有難うございました。俳句は主題をモノで表すと言います。目前に突きつけられたモノをどう受け取るか。読み手が受け取めた、読み手のモノが主題となってもいいと思います。だから作品の過半は読み手が作り出すものだ、と考えて鑑賞してきました。
現代詩には中立の言葉が非常に少ない、と思います。そもそも現代詩は自我表現を基調とした文学だけれど、俳句は文学ではありません。モノと心が同列の存在として、ともかく表現に先駆けて、まずその時空間に確固として存在しているのです。

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